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ブログNO.95 薩南への旅 3
「天智天皇」は九州にいた?!!
『書紀』の「天智」とは別人か
教科書で「大化の改新」を断行して古代国家に大変革をもたらした功労者、と市民に教えられている天智天皇(626~671年)。そしてその都は、関西の琵琶湖畔・滋賀県近江(おうみ)にあったとされている。
ところが九州には、天智天皇に関わる様々な伝承があり、中にはこの天皇は薩南の指宿(いぶすき)市で亡くなったという話が色濃く伝えられている。いったいどうなっているんだろうか。
教科書はこれまで『日本書紀』(以下『書紀』)の記述をもとに書かれている。しかし、『書紀』はこれまで詳しくお知らせしてきたように、8世紀に列島の支配権を得た「大和政権」が作ったまったく客観性のない「史書」であり、歴史事実をそのまま綴ったものではない。
『書紀』の記述を歴史事実として扱う場合はきびしい検証を経てからでないといけない。ところが文部省や国史学者らはそうした努力を尽くすことなく、市民に対して嘘八百の歴史を宣伝してきた。子供たちにうその歴史を教え込み、戦前のように悲劇をもたらす大きな原因のひとつとなった。
これまでの探索で、関西にいたとされている「継体天皇」や「安閑天皇」、「神功皇后」「成務天皇」の墓所、そして「倭の五王」らの都が実は北部九州にあったことがわかってきた。そして『書紀』や『古事記』から消された列島の盟主「伊都(倭奴)国」(注1)や「邪馬壹(台)国」(注2)、「東海の紀氏国」(注3)、九州年号(注4)を建てていた「継体朝=熊曾於(熊襲・隼人)族政権」(注5)の存在も明らかになってきた。
では7世紀中ごろの「天智天皇」の実態はどうなのか。『書紀』によれば、この「天皇」が生きていた期間はちょうど日本の権力が大きく変わった期間にあたる。あの国内の権力の大転換のきっかけになった「白村江(白江)での敗戦」の前後だ。
冒頭の「大化の改新」はこれまでにも実体のある話ではなかった疑いがある、という研究が主流だ。第一、「大化」という年号は「九州倭(い)政権」が建てた元号(686年?)だった。『書紀』はそれを約50年近く遡(さかのぼ)らせてあたかも「大和政権」が建てた年号であるかのように装っている。
『書紀』によればこの年号は、列島で初めて建てられた年号であるはずなのに、国史学者らは『書紀』にわざわざ「改元」と書いていることにほっかむりをしている。そして今も「大化の改新はあった」と教科書に書き、臆面もなく宣伝している。
いかがわしくウソ八百の歴史を市民に押し付けようという文部科学省の意思なのだろうか。最近もこの省の不正は続き、世間を騒がせている。時代を背負う子供たちの教育を担うにしてはあまりにも腐っている。日本の将来は危ういのではないか。
天智は山中で殺された?
『書紀』によれば、天智天皇は死ぬ直前、弟で皇太子だった天武天皇(大海人皇子)を枕元に呼び、後事を託そうとした。が、天武は疑い、吉野に逃げて「壬申の乱」が戦われ、天武は大友皇子の勢力を倒して即位した、ということになっている。
ところが平安時代末に書かれた『扶桑(ふそう)略記』という民間の史書には、
一に云う。(天智)天皇、馬車に乗り山階(やましな)郷に幸す。永(なが)らく山林に交じり、崩ずる所を知らず。ただ履(は)きつる沓(くつ)落ちし處をその山陵となす。以て往きし諸皇、その因果を知らず。煞(殺)害は恒(常)の事なり。山稜は山城国宇治(うち)郡山科郷北山。高二丈、方十四町。
と記録する。
天皇は山中で殺害されたというのだ。この殺害説は後の『帝王編年紀』にも引き継がれて記録されている。さらに鹿児島で書かれた『日本帝皇年代記』(当ブログNO.56参照)には、『書紀』の記述を述べたうえ、「此の儀、未だ審(つまびらか)ならず」と不信を隠していない。
『書紀』の記載通りの事が事実であるとすれば、後世、わざわざ違う話を書くはずはなかろう。なにせ『書紀』は大和政権が「これが正史だ」として宣伝と普及に努めていた「史書」だ。よほど間違いのない証言が数多くあったから『扶桑略記』などはわざわざ記録した、と考えるのが普通だろう。
『書紀』が言うように天智天皇は本当に滋賀県の近江京に都していたのか。また、本当に「大和政権」の天皇だったのか。もちろん、これまでの探索からわかるように、文武以前の「天皇」と言えば当然「九州倭(い)政権の天皇」しかいなかったはずである。
「天智天皇」は薩南で余生を過ごした?
天智天皇が薩南に来て、余生を送ったと記録するのは開聞岳北麓にある薩摩一の宮の「枚聞(ひらきき)神社」や指宿市東方(ひがしかた)宮にある「指宿神社」などである。
太陽神・オオヒルメムチを祭る「枚聞神社」の縁起(開聞古事縁起=「開聞町郷土史」による)の大要を記すと
はるか昔、近江に都があったころ、開聞山麓の岩屋仙宮というところで二人の僧が修行していた。ある日一匹の雌鹿が現れ、仏前の水を飲んだ。すると雌鹿は不思議にも懐胎し、口から女の子を生んだ。
僧たちは女の子を瑞照姫と名付けて育てた。やがてその美貌が評判になり、太宰府を通じて朝廷の采女となった。藤原鎌足の後押しで「大宮姫」と名を改め、天智の中宮(皇后に次ぐ姫)となった。
しかし、奥の院の女性らの「姫の足は鹿のひずめだ」などという嫉妬と中傷にいたたまれず、故郷の開門に帰って来た。郷里の人々は喜んで京田に仮殿を建てた。
天皇は大宮姫を忘れることができなくて、薩摩に出向かれた。迎えに出た姫と天智が出会った場所が今の指宿神社の地だ。お二人は開聞岳の麓に御殿を設け、生涯この地に住んだ。
という。また、天智天皇を主祭神とする指宿(揖宿)神社の縁起は「天智が大宮姫とともにここ指宿で天寿を全うされた」とし、籬(まがき)を巡らせた場所を「御陵である」とする。
天智天皇や大宮姫伝説を持つ神社にはほかに大隅半島・志布志市の安楽山宮神社もある。天智、持統、大友皇子、倭姫、天智の娘・乙姫、玉依姫を祭るという。「天智天皇が頴娃の大宮姫(倭姫?)を訪ねた時、ここに逗留し、はるかに開聞岳を眺めた。宮内の大楠は天智天皇のお手植えだ、という。
さらに薩摩半島西側の南さつま市吹上町永吉の久多島神社には、「大宮姫が帰る途中子供を産んだが亡くなった。それで久多島に葬られた。3年に一回、宮司ら地区民は必ずお参りする」という。
頴娃町別府の海岸部に「射楯兵主(いたてつわものぬし)神社」(通称・釜蓋神社=写 真)
があり、ここでも天智天皇にまつわる話が伝えられている。お参りすれば「霊験あらたかで運勢が上がる」とか、「勝ち運に恵まれる」などとして若者らの参詣者が多い神社だ。女子サッカーのエースだった澤穂希さんや、日本代表も務めた中村俊輔氏らが祈願に訪れたことでも有名だ。
この神社がなぜ「釜蓋(かまぶた)神社」と呼ばれるのかというと、社伝によれば、
開聞の宮におられた第38代天智天皇と后の大宮姫がある日、頴娃村御領の安東実重中将(天皇の待臣)を訪ねられた。
その接待のため安東中将は新しく御炊殿を設けて、火の神とカマドの神を勧請し、何十石という米を蒸していた。この時一陣の怪しい風が吹いて、その釜蓋を吹き飛ばした。蓋ははるか彼方の大川の浦に落ちた。土地の人々が」この釜蓋を拾い上げて神として祭ったからだ
という。
このほか福岡県田川郡赤村の「琴弾の滝」には「天智天皇がここで休んでいた時、天女が舞い降り、琴を弾いて天皇を楽しませた」という話もある。赤村は列島で二位に当たる巨大古墳が存在する(注6)可能性があったり、隣接の香春町にいたらしい安閑天皇が屯倉を設けた村だ。
大宮姫を祭る神社はほかに宮崎県国富町の剣柄稲荷神社や熊本県菊池市の高永神社などがある。長崎県佐世保市にもあると聞くが、これはまだ未確認だ。
「皇后大宮姫」は指宿市開聞町の入り江に着いた
開聞岳東麓の脇浜に鹿児島県が設置した「皇后来」の看板がある(写真)。看板にはこうある。
天智天皇の后(きさき)大宮姫が志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り、山川の牟瀬の浜にお着きになった。姫はしばらくその地に滞在されていた。いよいよ開聞の鳥居ケ原に新築される仮宮殿にお帰りになるため、牟瀬の浜から舟で開聞岳をまわられて脇浜の入江にお着きになったという。以来この入江を皇后来(こごら)という
何とも生々しい描写で大宮姫の帰還を語っている。
これらの伝説は後世、いろいろ脚色されたり、新しい話が入り込んだりしているだろうから、そのまま事実としてとらえるのは難しいだろう。しかし、『書紀』が白村江の戦いの時、福岡県朝倉市の「朝倉の宮」や博多に近い「磐瀬の仮宮」に一時滞在したと書く以外、九州とは無縁と思われる天智天皇の話が、なぜ鹿児島を中心に北部九州まで生き生きと広がっているのだろうか。
伝説というものは、その根幹に何らかの事実がなければすぐにバカにされ消える。多くの人が「なるほどそうだった」と思えば消えることなく語り継がれる。一見アホか、と思える話でもよくよく調べてみると、意外に官製のいかがわしい歴史ではない真実を含んでいることが多い。
中大兄皇子は「天智天皇」ではない?!
『書紀』に記す天智天皇(中大兄皇子)は奈良・飛鳥の住人で、飛鳥寺の西の広場で蹴鞠をしていて藤原鎌足らと出会い、蘇我入鹿(そがのいるか)殺害を目論むことになったという。そして甘樫岡に住んでいた馬子らを滅ぼしたことになっている。
『書紀』には、天智の后に大宮姫がいたとか、開聞まで行幸したなどということはまったく書かれていない。
『書紀』の〈天智紀〉も問題だらけだ。冒頭の「大化」年号のことはもちろん、たとえば太宰府を守るための大堤「水城(みずき)」や数多くの「山城」も天智の時代に築いたと書く。皆うそっぱちであることがはっきりしてきている。
「水城」を放射性炭素による年代測定してみると、その始まりは卑弥呼時代で、5世紀中ごろには完成していたことがわかった(当ブログNO.50参照)。山城も同様で、たとえば対馬の金田城の土塁も二重構造になっていて、最初に築かれたのはやはり5世紀中ごろらしい(450年±。長崎県教委の調べ。拙著『太宰府は日本の首都だった』202頁参照)。
天智紀に記す朝鮮半島三国、唐との戦いは「大和政権」が対応したものでなく、国家の存亡をかけて戦ったのは「
州倭(い)政権」である。中国の正史『(旧)唐書』に戦いの相手が誰だったか、はっきり書かれている。
『書紀』に盛られた外交や戦いの始終はすべて、「九州倭政権」の史書『日本旧記』の記録をそっくり戴き、それに若干のごまかしを加えたものである。
しかし『書紀』も事実を真っ黒には塗りつぶしていない。事実解明への手掛かりはちゃんと残してくれている。国史学者らが気付かないふりをしているだけだ。中大兄皇子はおそらく、「倭政権」から「白村江の戦い」に参加しろ、と命令されてしぶしぶ九州に来たが、母親の‶斉明天皇〟(宝姫)が死んだと言って、早々に引き上げている。
『書紀』が言うように、中大兄皇子が列島の次の天皇ならば、国家存亡の危機の時、「俺、知らん」などと現場を離れることは決してできないだろう。
ということはどういうことなのか。「官製の歴史」がウソだらけであれば、庶民の諸々の伝説は現実味を増す。「本当の天智天皇」は中大兄皇子ではない可能性が出てくる。
枚聞神社らが伝える「天智天皇」は「九州倭(い)政権」の天皇に贈られた諡号だったのではないか。九州に残る天智天皇伝説は、「『書紀』に記す中大兄皇子ではなく、別人の可能性が高いということだ。
「大和政権」が「九州倭政権」の天皇に贈られた諡号をパクった例として、すでに「継体天皇」と「神武天皇」の例を明らかにした(当ブログNO.13、14、31参照)。常套手段と言ってよかろう。
九州に残る「天智天皇」伝説の人物には、国家存亡の時の天皇とは思えないゆったりした話ばかりだ。『書紀』に記す「天智天皇」とは時期が違う時に実在した「天皇」だろうと思われる。
先の「開聞縁起」によれば「九州の天智天皇」は丙午の年、「皇后」は戊申の年に亡くなったという。「縁起」は通説に引きずられてその年をそれぞれ「706年」「708年」としているが、実際はそれぞれ60年前の「646年」「648年」だろう。『書紀』は、「九州の天智天皇」が7世紀中ごろの天皇であることを利用して、「中大兄」の功績だ、とうそっぱちの記述を作ったと考えられる。
そしてこの天皇が都していた場所は、ひょっとすると九州の「淡海(あふみ⇒おうみ=近江)」、すなわち北九州市の洞海湾とか博多湾など大小の川が流れ込み、塩分が少ない海のそばに都していたのではないか。成務天皇の都「近つ淡海の志賀の高穴穂の宮」は、洞海湾近くにあったらしいことはすでにお伝えした(当ブログNO.80)。
『書紀』にいう天智天皇は「近江に都した」と書かれるが、今のところその物証である都の遺構はいくら探しても発見されていない。「本当の天智天皇」が「淡海」に都していることに引っ掛けて「偽の天智天皇」が「近江に都した」という話を作って書いているのかもしれない。
「九州年号を建元した本当の継体天皇」の出身地が都した朝倉市の隣村、東峰村福井である可能性があるのに引っ掛けて、「偽の継体天皇」の出身地を「越前福井」として話を作ったのではないかと疑われるからだ。
注1 当ブログNO・11「倭はヰと読むべきことについて」参照
注2 同NO.26「卑弥呼の鏡」、NO.81「卑弥呼も紀氏」など参照
注3 同NO.81~91「紀氏国の続き物」参照
注4 同NO.4「九州倭政権が制定していた年号」参照
注5 同NO.13~15「継体天皇」らは朝倉、田川にいた」参照
注6 同NO.78「赤村内田古墳」参照
(2018年8月)

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