ゆたぼんに関する誤解を解いておくよ
先日ご連絡頂き、ゆたぼんと僕とでインタビューを受け、今日のTBSテレビのサンデージャポンで報道して頂きました。
賛否が出ている事を公平に取り上げて報道してくださって本当に感謝しております。
新聞記事には文字制限があって、テレビの放送時間にも限りがあるので仕方がない事なのですが、ゆたぼんがロボットに見えたの説明で「でもそれはオレがそう見えただけで、その子たちも何かで悩んでいると思う」と言っていた事だけはここで知っておいて頂けると有り難いです。
ゆたぼんは僕と違って賢い子です。
僕のブログに「自由ならなんでもやっていいのか!」と勘違いしたコメントをしてくる人がいますが、そんな事は言ってません。
ゆたぼんも「バイクに乗りたかったら免許を取って、自分のバイクで走る」のは自由だと知っていますし、「盗んだバイクで走る」のがやってはいけない事だとわかっています。
このブログや僕の著書でも何回か書かせてもらっていますが、かつての僕は「自由」の意味を履き違えて、多くの罪と間違いを犯しました。
暴走族になって盗んだバイクで走り回ったり、学校のガラスを割って回ったり。
しかし自由に生きようと思えば思うほど不自由になり、やがて犯した罪の重さに苦しみました。
そして自分の過去を隠し、必死で働き、必死で学び、必死で社会に馴染もうとしましたが、今度は疑問も募っていったのです。
世間の常識に従い、周りと同じように振る舞い、自分を押し殺して生きる事で自分の思いはどこに隠しているのだろう?と。
僕は僕なりの答えを探しました。
真の「自由」とは世間に由らず、自分に由る生き方の事です。
自分に由る生き方が「自由」なはずなのに、
僕は世間に由って生きていた。だけど「世間由」なんて言葉は存在しません。
だから世間を判断の基準にするのではなく、大事なのは自分の基準を持つ事。
モノサシはひとつである必要はないし、いくつあっても構わない。
でも自分の基準を自分で見つけて、自分のモノサシで生き始めてこそ、人は自由に生きられるのだと思う。
僕は決して自分の過去を美化しているわけ
ではなく、本当はずっと隠して生きてきましたし、反省もしています。
なぜその過去について今は隠さずいるのかについて
、著書に書かせてもらっています。
僕もゆたぼんもこれから色んな事に挑戦し、失敗したり、間違いを犯す事もあるでしょう。
それでも僕もゆたぼんも挑戦する側でありたいと思う。
色んな事に挑戦して失敗した事は自分自身の体験談になるし、実体験の中から学び、気づき得た事は大切な思い出にもなるはずだから。
「愛されたい!」そんなあなたのためのゆたぼん
ブログのコメントに何件か返信させて頂きました。まだまだ全部は返信できてませんが、時間がある時に返信させてもらいます。
コメント頂いた中で他の人と重複するコメントもあったので、今日はそれを書きました。
まず「親は子どもをできるだけ稼げる人間にしてあげる義務がある」なんてコメントがありましたが、僕は、親が子どもを「できるだけ稼げる人間にしてあげる」義務なんてないと思います。それよりも子どもが楽しく幸せに生きる方がよっぽど大切です。
それに行きたくない子を無理やり学校に通わせて稼げる人間になれるでしょうか?
嫌な事を無理やりするより興味のある事に没頭した方が、将来の仕事に繋がる可能性は高いと思います。
次に「いじめられているわけでもなく、自殺を考えるほど切羽詰まっている様子もないなら、学校に行かないのはただのわがままだ」というコメントがありましたが、これはかなり乱暴的な考え方ですね。
納得できる理由がない不登校を許すな!というコメントも似たような乱暴さですが、そもそもゆたぼんが受けた心の傷がつい最近ゆたぼんを知った人にわかるはずないし、不登校になった子はたとえ中学生であっても自分でその理由を説明できる人はほとんどいないものなんです。
ゆたぼんは1、2年生の時は毎日楽しく学校に行っていたし、3年生になってからも僕と一緒に宿題をしたり、妻と一緒に宿題をして、楽しく学校に通っていたのです。
あんな事がなければ不登校になる事もなかったかもしれませんし、いつか再び学校に通いだす可能性だってあるわけです。
しかし今、楽しく毎日を過ごしながら自分のやりたい事に向かって進んでいるので、それを見守っていきたいと思っています。
何が子どものためになるか、将来に役立つかは大人には分からないし、子どもにも分からないでしょう。だからこそ、本人がやりたい事を目いっぱいやって学べばいい!
ダルビッシュ有さんが僕たちへの批判に対してこんな言葉を言ってくださいました。本当にその通りだと思います。
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