阻止 さよなら夢の超特急

阻止 さよなら夢の超特急

阻止 はたらくを楽しもう

おはようございます

     【PFL】エスティシオーです音譜

・ユニオン

61大敗。この大敗がなければ1800枚到達してましたえーんえーん

最終日は、負け決定です。いじめてくる人が多すぎます。

恨みますウインク

今は、これ以上に差を広げられてます笑い泣き

大敗阻止目標。

そんな中、

【pink】蒲田さんと3回目のご対面

でも9時現在

頼むから起きてくれ~お願い

対岸には厄介者の人達がいます

その中でフレンド2人、名前わからなくなってますが

KATATEMAさんです。

もう一人

マルコスターズさん。

この二人筆頭にいじめてきますえーん

天罰として報酬ガチャはピタリでしょうウインク

タイトルの厄介者は、嘘です。大切なフレンドさんですお願いお願いお願い

では、ユニオンに戻りますロケット

それでは、また音譜

阻止ジャーナル

こんにちは!
年金アドバイザーのhirokiです。
今日は国民年金の創設時から、そして動向に関してを見てみましょう。
国民年金は昭和34年4月に創設され、今の保険料支払って万が一に備えるタイプのものは昭和36年4月から始まった社会保険方式のタイプのものが現在の国民年金の基盤となっています。
昭和34年頃というのは今の安倍総理のお祖父さんにあたる、岸信介内閣の時にできたものであります。
また、岸信介総理というと新安保条約にて非常に日本全土が安保反対闘争という大規模な闘争に沸いた時期でもあります。
新安保体制というのは日米安全保障条約の事ですが、吉田茂首相が昭和26年にアメリカ側の資本主義国側とサンフランシスコ講和条約を結んで日本が独立を果たした時に、その代わりアメリカが日本に米軍基地を置いてアメリカが日本の安全を保障するという条約であります(昭和27年4月発効)。
ただ、この時の安保条約は米軍は「日本の安全を守る事ができる」という守っても守らなくてもいいという不公平なものであったので、岸信介首相は昭和35年の新安保条約にて米軍が日本を守る事を義務とさせて公平なものとさせたのであります。
その新安保は昭和35年5月19日の強行採決から、1ヶ月後の6月19日に新安保体制が自然承認されました。
自然承認される前に国会では安保阻止のために30万人もの人が国会を包囲して警官隊と衝突するという大混乱の中でした。
なぜそんな大規模な闘争があったかというと、アメリカを日本においてたら戦争に巻き込まれるのではないかという不安を国民が抱いたからです。
とはいえ、国民は日米安全保障条約の事は正直よくわかっていなかったでしょうね。
だけど自民党が強行採決をした事で、民主主義の危機を感じて国民の不安意識に火が付いた。
国会を包囲して新安保阻止しようとしたとはいえ、もうこの時は衆議院の優越っていうのがあって衆議院で決まっちゃった事はもう30日経てば自動で法律は成立という状態だったんですね。
ところで戦後の新憲法(昭和21年11月3日公布の昭和22年5月3日施行)により、憲法9条にて日本は戦力を持たないという事になりましたよね。
憲法9条のおかげで日本は戦争から守られているんだ!というような感じになってますが、もし日本が戦後のアメリカの占領時から独立時に独立だけだったら日本は無防備な丸裸状態のままでした。
そうなると当時の旧ソ連(今のロシア)、モンゴル、中国、北朝鮮とか東アジア全体が急速な勢いで共産主義(当時の共産主義って、人間が持ってる財産をすべて国有化し、君主や資本家を徹底的に殺戮するというのがセットだった)が進んでる中では日本もきっと侵略されていたでしょう。
特にソ連は日本にとっては危険な国だったから、そのソ連からの侵略からの脅威から守るためにも日米安全保障条約を結んで資本主義のアメリカ側に付く事で侵略が回避されてきた。
日本の平和が維持されてきたのは憲法9条のおかげなんかじゃなく、日米安全保障条約があったからです。
ソ連の敵だったアメリカが、日本と同盟を結んでいたからソ連は日本に手出しができなかった。
9条のおかげで日本は守られてると多くの人がとんでもない勘違いしてるけどキョロキョロ
あ!スミマセン話が飛びすぎましたね(笑)
政治の話はご法度ご法度!
こういうのは有料メルマガで言うべきところやね!
えーと、国民年金法が求められる昭和30年頃、約4000万人の就業者がいました。
しかしその中の約1200万人程度しか年金(厚生年金や共済年金、恩給)には入っていませんでした。
つまりそれ以外の人には何の年金も保障されてなかったのであります。
昭和29年5月になって報酬に比例する年金のみだった厚生年金が、加入に比例して支給される年金(定額部分)と報酬に比例して金額が変わる年金(報酬比例部分)という形に大改正されました。
まあ、建物で言うと1階部分に定額部分+2階部分に報酬比例部分という事ですね。
今の1階部分は国民年金(基礎年金)が、昭和60年改正で廃止された定額部分にとって変わってますけどね。
さらにこの頃って私立学校が共済組合を作り(昭和29年1月)、また中小企業などが独自の共済組合を作ってしまおうという動きも出てきました。
そういう社会の動きに刺激され、零細企業の年金制度からあぶれた人や、雇用者ではない自営業者や農林漁業の人からも僕らにも年金作ってほしい!っていう声が次第に高まっていきました。
昭和33年の総選挙では当時の2大政党として君臨していた自民党と野党の社会党も国民年金創設が最大の選挙公約だったんです。
投票率も確か79%くらいだったかな。
とにかく戦後の普通選挙では過去最高の投票率。
ちなみに女性が普通選挙に投票できるようになったのは昭和20年(女性も投票できるようになってから最初の普通選挙は昭和21年)から。
女子は第二次世界大戦が終わるまで選挙権は無かった。
にしてもそれくらい国民にとっては国民年金は関心事だった。
本当は厚生省としては、農村漁村を中心に昭和13年にできた国民健康保険を全国に適用させるのが先と思っていて、昭和32年から4ヵ年計画で国民健康保険を健康保険とか共済からあぶれた人に適用しようとしていた。
3000万人程(当時の国民の3分の1にあたる)がまだ医療保険には未適用だったから。
でも、総選挙で自民党が勝って国民全員に国民年金を貰えるようにするチュー!って約束しちゃったもんだから、国民健康保険と国民年金創設の同時進行となっていった。
当時は国民年金に加入させようとする人の内(概ね3300万人)、所得税を支払えてる人は650万人とされていた。
ほとんどの人が非課税世帯の状態だったのに保険に加入させて年金保険料を支払ってもらおうとするのはほぼ不可能という考えではありましたが、そこは国民年金保険料免除制度を導入する事ですべてをカバーして国民年金に国民すべてが加入できるようになった。
まあ、支払えない間は免除にして支払える時に支払ってもらおうと。
そんな事が重なって、たまたま偶然にも国民皆保険と国民皆年金が昭和36年4月に達成された。
でも記事の冒頭で書いたように、岸信介内閣の時の新安保条約成立の反対闘争エネルギーが国民年金反対運動へ向かってしまい昭和35年10月からの国民年金手帳配布の頃に「国民年金保険料なんて支払うなー!手帳は返してしまえー!」っていう運動が総選挙に負けた野党を中心として全国に広まってしまった。
とりあえずの理由は国民年金は年金額が低く、保険料が高い、途中で死んだら支払い損という事で悪評が広まってしまった。
国民年金は国民が望んだものですが、一旦保険料の徴収が始まろうとすると安保闘争の腹いせで国民年金反対運動に転じてしまった。
国民年金自体が反対されたというか、安保闘争のエネルギーのせいで国民年金反対の方向に向いてしまった。
国民年金が次の反対運動のターゲットにされてしまったというか。
その徴収する保険料が戦費調達のために使われるというようにも捉えられてしまって、誤解と共に反対運動が全国に広まっていった。
国民年金への理解がなかなか浸透しない中、国民年金強制加入者は1488万人で、任意加入者は220万人という当初の目的だった80%以上の加入が達成されたからまあまあの走り出しだった。
その後、昭和40年に強制と任意加入合わせて2000万人を達成。
しかし、産業の変化で農業者や自営業者がどんどん減っていき、民間企業に雇用される雇用者(厚生年金)が急増していった。
これにより国民年金保険料を支払う人が少なくなっていって、国民年金の財政が危機的になっていった。
ただ、この頃はサラリーマンや公務員の専業主婦は国民年金には強制加入ではなかったが、この任意の加入だった専業主婦の人達の加入の増加により国民年金の財政が何とか支えられていた。
この任意加入の人達は大体200万人程でしたが、昭和50年には600万人ほどになり、昭和55年には780万人、昭和60年には750万人というふうにかなりの人が加入していた。
昭和50年から国民年金強制加入の人が減少していく中で、専業主婦の人達が国民年金財政を支えていたわけですね^^;
でもそういう人達は、あくまで任意の加入だから将来的に加入者が増えるのか減るのか確実性もなく、それに国民年金財政が赤字だったことは変わらなかった。
そこで昭和60年改正(昭和61年4月施行)により、国民年金をその名の通りすべての産業に関係なく共通部分の年金として各年金制度(国民年金、厚生年金、共済年金)の加入者の頭数に応じて拠出金を出し合い、基礎年金を負担するという形に変わった。
これにより国民年金財政は産業の影響を受けない安定したものとなった。
共済年金というのはそもそも公務員の福利厚生のようなものでしたが、厚生年金や国民年金に比べて給付がとても高くて官民格差を是正せよ!っていう声が昭和50年代になってくると強くなってきたから、共済年金もこの基礎年金に乗ってきた。
共済年金が社会保険的な色を強める事になった。
まあ、共済年金は昭和59年4月に国家公務員共済組合が統合した国鉄共済組合というほぼ財政破綻していた共済組合を抱えていたから、この機に共通部分の年金は各年金制度負担しあうという基礎年金に乗ってきたという理由もある。
昭和60年の年金大改正は国民年金財政を救うためのものでもあったが、この改正の時に今までサラリーマンの専業主婦は任意加入だったのが強制加入となり、また、20歳未満の傷病による障害者の人には低額な福祉年金を支給するしかなかったがそういう20歳前障害の人にも給付の高い障害基礎年金を支給する事とし、大幅な障害年金の改善が図られた。
昭和60年改正の時は中曽根康弘首相の時ですが、中曽根首相の大きな政策は赤字続きだった国鉄や、電電公社(今のNTT)、日本専売公社(今の日本たばこ産業JT)の民営化がよく挙げられます。
しかし最大の政策は基礎年金制度の導入だった。  
昭和50年代まで引き上げすぎてきてしまった年金給付の削減をして少子高齢化に耐えうる大手術を行い、バラバラになっていた各年金制度の中に共通部分を作って綺麗な形にした昭和60年改正は年金の
史上では最高の知恵だと思う。
年金にはいろんな改正がありましたが、この昭和60年改正ほどスゴイ改正は無かったと思う。
しかしそんな、年金史上最高の知恵も少子高齢化の予想をはるかに超えた進行でその後も大きな改正が行われてきたわけですね〜
それでは今日はこの辺で!
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阻止マニアのサイト♪

兵器の発達は日進月歩である。

動画は日本で防弾チョッキ防弾ベスト防弾衣と呼ばれるボディアーマーを紹介している。

ボディアーマーは、銃弾や爆発による破片などから身を守るために使用されるベスト状の身体防護服。フラックジャケットバリスティックベストブリットプルーフベストとも呼ばれる。

日本では防弾チョッキ防弾ベスト防弾衣などの呼び方がある。

なお、ボディアーマーの防護性能は使われる素材によって異なっており、砲弾片程度しか阻止できないものから、拳銃弾を防護できるものが一般的である。

中には装甲を貫通する目的で作られた小銃用のAP弾を停止させるNIJ規格レベルIVクラスのものまで存在する。

最初期のソフトアーマー類のうちのひとつは中世の日本において絹で作られていたものだと言われている。 

中世末期にマスケット銃が登場すると鎧が打ち抜かれる事例が多発するようになったため、鎧職人側も対抗するために前面を厚く、背面を薄くしたり、積層装甲などの技術を用いて対抗しようとした。

銃が大量に配備されるようになるとマスケット銃の弾が貫通しないことが重要なこととなり、出来上がった鎧を銃で撃つ『試し胴』を行い貫通しないことを証明するようになった。

しかし、実際に打ち抜かれないことは稀であり、そのほとんどは火薬を極端に減らした弾を使うか、職人が弾痕に見せかけたへこみを工具で付けていたのが実情であった。

銃の発達によって装甲の薄い全身鎧は存在価値を失い、鎧は頭と胴体だけを守る物へと変化した。中世のものよりも厚くなり、遠距離からの小銃弾や銃剣に耐えられるようになった。

このような鎧を身に着けた胸甲騎兵や装甲擲弾兵がエリート部隊として戦場に現れた。

しかし、このような鎧も機関銃の登場によって価値を失っていく。

1898年シカゴ市長カーター・ハリソンが自宅にいる際にギャングによって機関銃で撃たれ、命を落とすという事件が起きた。

シカゴ市民の間に衝撃が走り早急な対策が必要となった。

神に仕える人も思いは同じだった。

カシミール・ゼグレンはシカゴの教会の聖職者だった。

市長の死に衝撃を受け、彼は神聖な仕事として防弾ベストを作る事を決意する。

しかし15年間、鋼鉄の削りくずや毛髪を利用して実験を繰り返したものの成果は上げられなかった。

次に試したのが絹だった。

絹は鋼鉄に比べ弾性があり引っ張ると元の長さよりも30%長くなった。

またゼグレンは蜘蛛の巣にも注目。

ぶつかった昆虫の運動エネルギーを巣が吸収する原理を応用しようと考えたが、これぞ、といった織り方が見つからなかった。

しかしヨーロッパの織物工場を訪れた際、ついに理想的ともいえる四層の織り方を見つけ、防弾ベストを仕上げた。

この防弾ベストの効果に疑問を持つシカゴ市民を納得させるため、究極の実証方法を考案する。

性能には自信があったため、彼はシカゴ劇場にて自らベストを着用して実演を行なった。

人々が見守る中、彼の同僚が彼に銃を向け、発砲した。

見事に成功。

弾は貫通しなかった。

彼は信仰心が篤く、自分の行為を信じていた。そして心の奥底には「これは、神からの使命。神は裏切らない」と心から信じていた。

1914年にゼグレンの開発した絹のボディアーマーは800USドル(現在の価格で1万5,000USドル)程度で高価なものだったが、黒色火薬を用いる初速の低い銃弾を防ぐのには十分な性能であった。

これを着用できたのは少数の精鋭部隊のみだった。

この大戦での塹壕戦では、それまでの皮製のヘルメットなどに代わる鉄兜や、一部では昔の胸甲騎兵のような鉄製のボディアーマーも用いられた。

前者はその後一般化していったのに対し、後者は小銃弾に耐えられるように分厚くなっており、重量は30kg前後にもなっていた。

あまりに重く、行動を阻害してしまう上に防御が不十分なため、特殊用途を除き廃れていった。

ナポレオンの頃と大差がなく、撃たれれば貫通する可能性は高く、何の意味もなかった。

塹壕での着用も無意味だった。事実上ボディアーマは、軍で活用されず、その代償を払うのは兵士たちだった。

1920年代の後半から1930年代の前半にかけてアメリカでは木綿が詰められた布製の廉価なボディアーマーが犯罪者に用いられるようになった。

このボディアーマーは初速が約1,000フィート/秒程度の拳銃弾を防ぐことが可能であったため、法執行機関がそれに対抗する目的で.38スペシャルや.357マグナム弾を装備するようになった。

第二次世界大戦ではソビエト赤軍のSN-42や日本陸軍の九二式防弾具など、一部で鋼鉄製のボディアーマーが使用されていた。

金属は銃が開発される以前から防具として使用されてきた素材であり、繊維系の防弾素材に比して劣化しに
くい(チタンの場合は海水でも錆びない)という利点があるものの、重量が他の素材よりも重い、跳弾の危険がある、防弾性能が低い、水に浮かないなどの欠点を持つ。

また、イギリス軍の爆撃機の乗員向けにナイロンを用いた対砲弾片用の”flak jacket” が開発され、以後の軍用ボディアーマーの開発に大きな影響を与えた。

朝鮮戦争においてアメリカ海兵隊がナイロン製のM1951ボディアーマーを採用して兵士に支給した結果、死傷者が減少したことから、以後アメリカ軍ではボディアーマーが標準的な装備となった。

ベトナム戦争中の1967年には、世界初の小銃弾阻止可能なボディアーマーであるT65-2プレートキャリアが開発された。

このボディアーマーには当時チキンプレートと呼ばれていたセラミックプレートが装備されており、低空を飛行する危険な任務に当たるヘリクルーに配備されたが、非常に重かったため戦場では不評であった。

アメリカ軍によって採用されたPASGTボディアーマーではデュポン社が開発したアラミド繊維であるケブラーを防弾材として使用し帝人社のトワロンが有名である。

この素材は、鋼鉄の数倍の引張強度を持ち、なおかつ熱に強い、加工や縫製が容易、安価などの利点を持つが、防弾能力は拳銃弾を止める程度が限界であり(薬量の多いボトルネック型薬莢を持つ高初速の拳銃弾(マウザー7.63mm・トカレフ7.62mm弾・5.7x28mm弾等)や、細身の刃物や弓矢などは通しやすい。

防刃目的に使われる場合は、強化樹脂や金属のプレートを使用したり、チェインメイル(鎖帷子)を併用したりする。)、水分を含むと防弾性能が著しく低下するため防水処置が必要なこと、水に浮かないなどの欠点がある。

耐摩擦効果の高い繊維で編まれた布を数枚から数十枚重ねることで、銃弾のエネルギーを減衰させることに主眼をおいている。

ネットにバレーボールを打ち込むように、繊維が周りにエネルギーを分散させることでダメージを減免するのである。

繊維のみを用いたボディアーマーは比較的軽量で動きも束縛しにくいというメリットがある。

アラミド繊維の大きな特徴として難燃性があり、自己消火性を有し、他の有機繊維の様に溶融せず炭化するため、熱によって溶けた繊維が皮膚に付着したりするという二次災害の危険が無いという利点がある。

このため車両やヘリコプターのエンジンルーム等の高温部の防御にも使用されている。

アラミド繊維に続く第2世代の防弾繊維として、超高分子量ポリエチレンから作られた「超高分子量ポリエチレン繊維」があり、DSM社の「ダイニーマ」やハネウェル社の「スペクトラ」が有名である。

アラミド繊維を超える耐衝撃性・耐摩耗性を有し、さらに吸水で劣化しない、軽量で水に浮くなどの利点を持つが、熱に弱く135度で溶解してしまう欠点を持つ。

超高分子量ポリエチレン繊維は加工方法によっては「ソフトアーマー」だけでなく「トラウマプレート」としても使用することが出来る。

特殊な温度制御式超高圧プレス機で圧着して硬度の高いプラスチックの板状にすることが可能であり、この状態であれば小銃弾の阻止も可能である。

一方ソビエト連邦軍においてもアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)に参戦し現地で対ゲリラ作戦を経験し苦戦した中で独自設計のボディーアーマーの開発に着手し、6Б1、6Б2、6Б3といった幾つかのタイプが アフガニスタン紛争で前線で戦うスペツナズ空挺軍兵士などに装備され使用された。

実戦を経て、ソビエト連邦軍もボディーアーマーを装備に追加した近代化、戦闘能力の強化を図っていた。

また、1991年にアメリカ軍の特殊部隊で採用されたレンジャーボディアーマーはセラミックプレートを前、後部に挿入することで、それまで歩兵用に採用されていたケブラー製のPASGTベストでは不可能だった小銃弾の阻止を可能とした。

PASGTの後継としてアメリカ陸軍と海兵隊で採用されたインターセプターボディアーマーはPASGTと同じくケブラー製のアーマーが装備された(首、上腕部、股間にも増設可能)。

さらに、炭化ケイ素や炭化ホウ素のセラミックを防弾材としたトラウマプレートも採用された。

このトラウマプレートは小銃弾の阻止が可能であり、一般の兵士の生存率向上に貢献した。

しかし、繊維系の防弾素材と比べると重いため、ボディアーマー全体をトラウマプレートのみで構成することは兵士が着用して活動する点において現実的ではない。

そのため重要部位のみの防護に留めておりこれをハードアーマー、他の部位を防護する維系素防弾材であるソフトアーマーに分化し目的に応じて併用、もしくは使い分けられる場合が多い。

アメリカ軍のトラウマプレート「SAPI(Small-Arms Protective Inserts)」はセラミックに「スペクトラ」の裏地を当てた板状のもので、5.56mm弾や7.62mm弾を停止する能力を有している。

その改良型である「E-SAPI」はさらに厚さを増したセラミックの裏地に防弾不織布(一方向強化ポリエチレン材料)を当てることで徹甲弾にも対応している。

また、インターセプターボディアーマーにはボディアーマーとして初のPALSウェビングが縫い付けられている。

これにより任意の位置にポーチ類を装着する事が出来、装備の自由度向上に寄与している。レンジャーボディアーマーで不評だった重量も大幅に軽量化されていた。

このように80年代から大幅に能力が向上した軍用ボディーアーマーであったがアメリカ同時多発テロ事件を契機としたアフガニスタン、イ
クでの対テロ戦争では接近戦の増加や強力な爆弾による待ち伏せ攻撃(IED)が多発し、ボディアーマーの更なる改善が求められた結果、両側面部にもセラミックプレートを追加したIOTVとMTVが採用された。

これらの選定時にはまったく新しい概念で作られたドラゴンスキンと呼ばれるボディアーマーも競争相手となったがこちらは採用されることは無かった。

対テロ戦争の結果、アメリカだけではなく世界各国でボディアーマーの改善が行われるようになり、日本の陸上自衛隊でも自衛隊イラク派遣時に、当時採用されていた戦闘防弾チョッキでは危険と判断し防弾チョッキ2型を急遽採用して派遣部隊に装備した。

しかし、これらの防御力を追求したボディアーマーは重量が増大しているため、兵士の機動性が低下したり疲労や腰痛を起こすことが問題となった。

特にアフガニスタンの山岳地帯などで戦う兵士にとってはこれは深刻な問題であったため、アメリカ軍では防御範囲を減らすことで軽量化を行ったSPCやSPCSを採用した。


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